鬱蒼と茂る森の端。
糸杉の葉から零れる微かな光が、場にそぐわない仕立ての良いスーツを着た老いた男の姿を浮かび上がらせた。
あてどなく歩きながら、老人は微かに首を傾げた。
広い森のどこからも音がしない、生き物の気配がない。下草と一緒に自生する薄荷を踏みしだいても、その香りは立ち上らない。
杖に縋らなければ直立も覚束なかったはずの自分が、なぜこんなにも確かな足取りで歩いているのか。そもそも、いつから、どこへ。
至当な理由に思い至る前に、歩み続けたその足は拓けた場所にでた。唐突に終わる森の先は、ゆるやかにカーブする車道。遮るもののない陽光に炙られ、ひび割れたアスファルトが陽炎を上らせる。その炎天すら厚い硝子で隔てられているようになにも感じない。
そしてすぐ目先には錆ついたバス停。
いつかどこかで見た風景だった。
ずっと昔、雪を被った高峰の頂に憧れて、生まれ育ったシチリア島から北の国境まで最初で最後の一人旅をした。はじめて公共の乗り物に乗って切符を買ったこと、田舎の旅籠で出された鹿肉の塩漬けが口に合わずに難儀したこと。そんなとりとめもない思い出が溢れ出す。
あれは区切りだった。何者でもなく振舞っていられた幼い時期は過ぎ、血と歴史を背負う路へと踏み出す前の最後の自由だった。
そうして、また旅の終わり。
今からバスがやってきて、それに乗る。きっとその先は全ての終わりにつながる所。喜びも悲しみも罪も何もかもを流し去って、また何者でもない存在へと還る。
超直感でもなにもなく、当然のように湧き出した事実だけを老人は理解した。
強烈な日光に晒されても汗一つ零れない硝子越しの風景に佇む。どれほどそうしていたか、伏せていた顔を上げる。静まり返った世界から、彼の耳が足音を捉えた。
やってきたのとは反対方向、車道を挟んだ森から人影が現れた。
最初に目についたのは黒ずくめの服装。やがて傷のある整った顔と、歩みと共に揺れる羽飾りが露わになる。
この場所で誰かに会えるかもしれないという予感めいたものはあったが。やってきたのが、若くに死に別れた妻や、全てを譲り渡した心やさしい少年でもなく、男だったことに少しだけ驚き、同時に安堵した。
「きて、くれたのかい? それとも私が呼んでしまったのかな?」
「……」
遠慮がちな質問にも男は応えない。ただ黙って車道を横切り、老人の横に並び立って腕を組んだ。
固く口を引き結んだ表情は、怒っているようにも、退屈そうにも見える。
自分より随分高い位置にあるその顔を眩しげに見上げた老人は、口を開きかけ、また閉じた。
言葉が出てこない。それでいいような気もするし、何か喋るべきかとも思う。どうにも思考がまとまらない。
耄碌したというより、元から不器用なのだ。
そのくせに巨大すぎる組織を束ねて、不相応にも人の上に立つ位置に長くいた。
偉大だと、寛大なボスだと称えられたが、傷つくものを見たくなかっただけだ。不必要に誰かを傷つけて、それに傷つくのを厭っただけだ。
だから、老人には、降ってわいたこの穏やかな時間をどう過ごせばいいのか分からない。
一人ならバスがくるまで眼を閉じて立っているつもりだった。泣き喚こうが黙りこくっていようが一人なら同じ事。悲しみは無意味だ。今更。
誰かが横にいた時どうすればいいのか、分からない。だから、何事もないように振る舞う。ずっとそうしてきたように。他のやり方なんて知らない。
ただ穏やかに、どうしようもなく一緒にいた。
「来たね」
言葉を合図にしたように、カーブの向こうからバスがやってくる。
懐かしい油圧シリンダの音ともにドアが開く。
ステップに足をかけて数段昇ったところで振り向くと、小柄な老人と長身の男の目線の高さが揃う。
つと手を伸ばして、老人は、男の頬に手を当てた。
男が軽く眉を寄せたが、皺だらけの手は気にした風もなく精悍な輪郭をなぞる。
老人の脳裏に、同じようなことをした雪のちらつく路地が浮かぶ。
遠いあの日も、低い目線にしゃがんで合わせ、頬に手を当てた。
頬を赤く腫らして、眼の中で飢えと凍えを訴えるその手を取った理由が、憐れみを含んでいなかったといえば嘘になる。
だが、それ以上に、親子になりたかった。
縁者も多く、慕ってくれる人々はたくさんいて、彼らも家族だったが、それより強い絆で結ばれた存在が欲しかった。
偉大なドンとして振舞い、家族の誰もが飢えないように、凍えないように。どんな時も自分を奮い立たせ、律し、そうあろうとしてきたつもりだった。
なのに、自分に小さな牙を突き立てたその瞳には、憎しみよりも何よりも、飢えと凍えがはっきりと刻まれていた。
それを見た時、老人の積み上げてきた全てのものが崩れた。
表す方法を間違ったのか、そもそも自分は何かを成し得たのだろうか。あの日からずっと苛まれてきた。
息子、と呼びながらも欲しているものすら知ろうとせずにいた代償は、長い長い絶望だった。
一人は悲しい。寂しい。辛い。
その事実を嫌というほど知っているのに、氷の中に置き去りにした。
きっと冷たかった。怖かった。酷かった。
捻じ曲げてしまったことを済まないと思っている。もう、どうしようもない事実。
「私は、いい父親になれなかったね」
とっくの昔に出された結論だったが、老人は呟かずにはいられなかった。
それでも最初に手を伸ばした時、幸せになれると思ったのだ。互いに。
それは残酷ことしかもたらさない、愚かで、とても美しい幻想だった。
薄っぺらい、笑えるほど浅い考えだったとしても。それでも、最初の願いに間違いなんてなかった。
今さら男に与えられることなんてなにもなく、傷と呪詛しか残せなかったとしても。最後の最後でただ二人は同じ場所に立って。共に、在った。
もう、悔いたりはしない。
「君に、会えてよかったよ」
「元気でね、XANXUS」
そして男は遠くから響く音に目を開けた。
鋭い視線の先には、取次ぎなしに入室した闖入者。
それが許される唯一の存在、年よりも幼く見える青年はもう既に目を赤く腫らしている。
「ついさっき……息を……」
最後まで言いきれずに、ほろほろと大粒の涙を溢す。
これから数え切れない人の生き死を動かしていくはずの指、百年の歴史を担う肩、それすらも頼りなく震えてる。
なんて、無様。哄笑しようとしたが、それすら億劫になって机の上に投げ出していた足を下ろし、息を吐く。
男の投げやりな態度を前に、青年は泣き続けていたが、何かに弾かれたように頭をあげた。
濡れた薄い鳶色の目が、男の頭にひたりと焦点を当てて、更に遠くを見とおす。
「会った?」
「ああ」
男のそっけない返答に青年は何を感じ取ったのか、涙を止めた。
「そっか」
子どものように上着の袖で目元を乱暴に拭って、やっと着慣れてきたスーツを台無しにする。
どちらにせよ今から喪服に着替えるから別に構わないのか。
「ならよかった」
鼻を啜りながら青年は小さく唇を綻ばせる。そして首をすっと伸ばし、遠くを見据えた。
男もゆっくりと首を後ろに巡らせ、窓の外に同じものをみた。
透き通る曙光が、気圏を包む穏やかな群青を切り裂いた。もうすぐ燃え立つような夏の朝がくる。