ドアが開いて、暗い廊下から華奢な男が姿を現した。剣の柄を握ってる掌が汗ばむ。
浮かび上がるみたいに見えてきたのは褪せたブロンド。ひどく小柄な体と線の細い顔立ちは、想像とだいぶ違う。質素な綿のシャツを着た男は、身構えたオレの前に無造作に歩いてくる。
「君は剣士だね。知ってるかい、わたしたちは暗殺者だよ。そして、ヴァリアーは暗殺部隊」
わかるかね?
外国人に言い聞かすように音節をゆっくり区切って尋ねてくる。
「……あ?」
「それを踏まえて入隊を希望するならいいだろう。こちらの流儀はおいおい学んでもらうし、剣士としての勝負なら受けよう。まあ、君も万全がいいだろうし、わたしもいろいろと片付け事があるからね。日取りはそのうち決めよう」
「おい……」
べらべら好き勝手絶頂にくっちゃべったら満足したのか、後ろに控えたメガネ野郎に手を振ってさっさとドアから出てく。
使えるコネを全部使ってやっと作った剣帝との初邂逅は20秒で終わって。ぽかんと口を空けちまった時点で呼びとめる機会は逃げてった。
そして今日も、剣帝サマはせっせと溜まりまくった書類と向き合う。
二日にいっぺんくらい、呼び出されて夜中の執務室で向き合う。本人が言うには、ニンジンが目の前にあった方が早く進むらしい。
寝そべれそうな大きなデスクに、制服着たいけすかないやつが冗談みたいな厚さの書類の束をどっかり載せてく。そいつがメガネ越しに良く分からない目つきでオレを睨んで出ていくと、あとはメイドが来て紅茶を注ぎにくるまで二人で向き合ったまま。
カップから真っ直ぐ昇って途中からぐるぐる渦巻に変わる湯気をただ見ている時もあったし、ガブガブ飲んで何杯もおかわりすることもあった。菓子も砂糖も何も添えられていない、苦くてぬるいのを啜りながら、取り留めない喋りに付き合った。
「何カ国語喋れる? 日本語は早めに憶えるといいさ」
なんの話だよ。
「これからのことだよ、小さな君」
「小さいっつーな!」
「これから大きくなる余地があるってことだよ。それはとてもとてもイイコトだよ」
伸びる爪すら持たない義手をひらひら翳して言われれば、どうでもよくなって、いつの間にか手伝うようになった書類の分類に集中した。
「いつ終わんだよ、それ」
「君みたいなクソガキと違って『やらないといけないこと』がそれなりにあるのさ」
「そんなにご大層なことなら溜めとくなよ」
「大体はどうでもいいこと、さ」
「どうでもいいならやらなきゃいいだろ」
「どうでもいいけどやっておいたほうがいいさ」
それに、と続ける。「もしわたしと勝負した後にこれが積み上がってたら君が困るだろう」。そう言って片目を瞑ってみせる。正直わけわからない。
ガキんちょ二人組なんてオッタビオかイエミツの手玉に取られるのがオチさ。それでも毒爪よりは毒袋がましか。
自分にしか通じないことをブツブツいいながら、嬉しそうに書類を片付けていく。
今日は茶が出てこない。決闘するはずの相手はこっちに目も向けずにペンを走らせてる。
それをちょっと物足りなく思ったりするのは、慣らされたみたいでなんかおもしろくない。
「私たち人がどこから来たのか、君はしってるかい?」
いきなりいつものどうでもいい話が始まって、オレは知らずに入っていた肩の力を抜く。
「六日目に作られたんだろ」
マフィアは信心深い。教会なんて入ったことねえけど、それくらい知ってる。
「そういうバケモノとかのおとぎ話ではなくてね、我々と動物の分かれ目の話だよ」
バケモノじみた戦歴を持つ男はオレの料簡をあっさり蹴飛ばした。人がせっかく気ぃ使ってやったのに。
「あー、道具を使うようになった猿が進化した」
次はガッコウで教師が喋ってた内容を差し出してやる。
「猿でもバナナ欲しさに棒きれくらい振り回すさ」
それすらも木っ端微塵にしておいて、まあでも、と付け足す。
「あながち間違いでもないかもしれないね。どこかの猿が振り回した棒きれが、よその猿の頭をかち割ってから。それはもう道具でなく凶器となって、振り下ろした猿を『殺人者』にしたのさ」
サイン済みの書類でデスクトレイが埋まっていく。
「木の上にいた猿が地に降りて、その両の手が振われて血が流れた。そして『彼』は、二本の足だけで立って彼方の地平をみるために顔を上げた。その時から人間ははじまったのさ。ねえ、君。わたしは考えるんだ。最初その時、何が見えたのだろうか? それはきっと厭わしいくらい懐かしく、疎ましいくらい新しい世界だったんだろうね」
「あんたはたまに、売れない物書きみたいなこと言うな」
まあね。ひょいと肩を竦めてみせた後、それまでごりごりしていたペンの音が唐突に止まる。
「君がその小さな背を伸ばしてわたしに届くなら。わたしの『世界』をくれてやってもいいさ」
紙切れから真っ直ぐ上げられた目に射抜かれる。
「スペルピ・スクアーロ」
「君はその素晴らしい名前の通りに、動いて動いて動けばいい。本能で、欲望で、情動のままに手足を振り回してただ動いていけばいい。成果も栄誉も後悔も何もかも、全てはきっと後からついてくるんだろう」
トレイに最後の一枚を重ねてペンが置かれる。
「テュール」
オレは目の前の男の名前を初めて口にする。名前を呼ばれて、呼び返した。たったそれだけなのに喉がひりつく。
絞り出したその声を目を細くして聞いた剣帝は、執務室の窓を開けてベランダに出た。3階下の開けた中庭に飛び降りながらオレに呼びかける。
「うん。片付け事も終わったし、話も終わったし。まあ、なんだ。だから、殺し合いを始めようか」
この後決着が着くまで、二人とも何ひとつ喋らずに終幕。
スクアーロにとって畏怖や敬意なんてないけど、それでも忘れ得ない存在であればと願う。