sprinkle Lethe's water

 霧の中で揺れる小さな舟に乗っている。
 舟底に寝そべっていると、切り取った白い空だけがゆらゆら揺れる。まるで棺の中みたい。入ったことなんてないのにそう思う。
 目を閉じて、開ける。瞼の裏の黒と見上げた白の合間に、私のものとは違う影が差した。彼のものだ。
 彼が船頭に腰を下ろしていることを、そこからこっちを見つめていることを私は知っているけど知らない振りをする。
 そのまま寝転がって目を閉じて、開ける。
 空と水面が溶け合う遠いところから強い風が吹いた。乱されても直そうともしない彼の髪も、ひたひたと見つめてくる目も夜のように黒いことを私は知っている。


――夜に手を触れてはいけませんよ。手を触れさせてはいけませんよ。
 あの人はいつかそう忠告してくれた。
――あの人?
 岸辺を迷い歩く私、そこで出会ったあの人、そんなの忘れるわけないのに。
 でも、どうしてだか全部が遠い。


「あの人のため?」
「そうだ。ぜんぶあの人のためだ」
 いつの間にか私と彼は言葉を交わすようになっていた。
 頭をほんの少しだけ持ち上げると、爪先越しに眉根をぎゅっと寄せて、膝の上で組んだ自分の手を見つめている彼の姿が見える。
 その手のひらには布が何重にも巻かれていて、染みだした薬と体液でまだら模様になっている。
「どうして?」
「決まってるだろう!」
 声が尖って高くなる。
「あの人は……大事に決まってるだろう。オレを見出してくれた、使ってくれた……きっとオレの力を必要としてくれる時が……何を笑っている?」
「ううん。笑ってないわ」
「笑った。馬鹿にした。何も知らないくせに」
 そう言うと、彼は口をきゅっと結んでそっぽをむいてしまった。それきり黙ってしまった。
 仕方なく船の縁を掴んで体を起こす。笑ったつもりなんてなかったけど、もしかしたら笑っていたかもしれない、と思った。馬鹿にすることなんて何もないけれど、私は確かに笑っていたのかもしれない。だって彼と話していると楽しかったから。だって彼と私たちは同じだったから。


――私たち?
 そう、私と二人の男の子、そして女の子と小さな男の子。
 知ってるのに、ちゃんとわかってるのに。どうしてだか名前も顔も掬い出すことができない。


 強い風が吹いて、小舟が大きく揺れる。
 水しぶきがかかって、彼がわっと声をあげて跳ねた。その仕草が面白くて私は今度こそ笑う。
「わ、笑うな!」
 でも駄目、それがおかしく思えてきて、両手で口を押さえてる隙間から声が零れてしまう。
 また揺れた。次は大きく。体がふわっと浮いて、私は舟に必死でしがみついた。揺れはすぐ収まったけど、まだ胸がどきどきしている。
 この水はダメ。忘れてしまう。この中に浸れば悲しいことも全部なくなる。でもまだダメなの。
 体を自分の腕で押さえこんでると、低い唸り声が聞こえた。
 振り向くと、彼が口を開けて楽しそうに笑っていた。その手には櫂が握られていて、私は彼が水を掻いてわざと舟を揺らしたことを知る。
 落ちるところだった。私がそう言うと、彼はもっと笑って、「これでおたがいさまだ」と返す。


 しんとした小舟の上。
 私はまた寝そべって、目を閉じて、あの人のことを思う。
 あの人と出会えて私は幸せだった。欠けたものは贖われて、守られた。不安がなかった。
 私を呼ぶ声や、美しい互い違いの瞳の色を思い出す。
 今の私はちっとも幸せじゃない。あの人の居場所は遠くて、この舟はどこへ向かうかもわからない。
 でも、この舟に乗ってるのが一人じゃなくて良かったなと思う。
 目を開けると、彼はいつの間にか変わってしまった。私と同じくらいだった背丈がぐんと伸びて、顔も体つきも大人のそれに近付いている。
 彼は両手にいくつもの刃物を抱えていて、節くれた指は細い柄に合わせてかすかに窪んでいる。まだらの布が巻いてあった場所には引き攣れたケロイドが残っていて、私はそれがひどい火傷の痕だと気付く。
 陽に焼けて固く筋肉がついた彼の腕を見て、青白くて力ない私の腕に目を落とす。
 私たちは似ているのに全然似ていない。それに気が付くとなんだかお腹のあたりが重くなってしまう。


「どうして泣く」
 腕で覆った私の顔なんて見えていない筈なのに、ぜんぶ知ってるような声でそう話す。
 泣きやまななくちゃって思うのに、どうしても嗚咽が止まらない。
 さっきまで重かったお腹がどんどん空っぽになっていくのがわかる。
 あの人からもらったものが掌からどんどん零れ落ちていく感触に私はただ泣いた。
 涙で滲む視界に、立ちあがった彼の長い長い彼の影。
「オレは行く。あの人のところに」
 私よりずっと大きな男の人は、私のいる場所を通り抜けて船尾に歩いて行く。
 動くたびに軋んでいた舟板が鳴り止んで、彼が水面を渡って行ってしまったことを知る。 
 私も立ちあがらないといけないのに。傷まみれになってもあの人を追いかけ続けた彼のように、私も私のあの人のところに行かなきゃいけないのに。
 お腹は空っぽで手は縛られて、足枷が重い。


 霧の向こうから獣の鳴き声が響く。
 その声は私を呼ぶのに、小舟の上にいる私は自分の名前すら思い出すことができない。


2011年初頭本誌で凪ちゃんがすごいかんじになってたので



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