胸の内で三十匹目の羊を数えたあたりで、下唇が解放された。
本能的に退こうとする自分の体を意志で押しとどめ、代わりに、気付かれないよう素早く呼吸する。
酸欠で暗転しかけていた視界が少し戻ると、寄せた眉と険しい目元が映り、また違う理由で目眩を起こしそうになった。
直視できない。かといって、目を閉じるのはもっと無理だ。自分を不甲斐なく思いながらも、どちらも出来ずに天井に視線を泳がせる。
ようやく取り込めた酸素が血管を巡るのを感じ取り、同時に零すことのない言葉が体の中を駆けめぐる。何故、だとかの陳腐な問いはとっくの昔に摩耗して、報告途中で取り落とした書類を後で拾わなければ、などというでもいい言葉だけが浮かぶようになったのは、慣れなのか逃避なのか判じかねていると、耳たぶを引っ張られた――再開の合図。
下を向く前に、もう一度息を吸っておいた。
はく、と擬音にすればそんな可愛らしい音がしそうな、二回目の行為の始まり。唇を唇で挟まれる。どうやら次の標的は上唇らしい。
何と名付ければいいのだろう、敬愛する主から時おりなされる「唇を食んでくる」奇矯な振る舞いは。
どうやら自分の厚い唇の噛み心地がお気に入りらしいが、接吻などではもちろんなく、もっと単純で難解な行為だった。その証拠に、齧ってくる口に舌先でも触れようものなら、キモチワルイとの怒声と共に拳が容赦なく飛んでくる。
仕方なしに身につけたのが、飽きるまで口を開けて阿呆のように突っ立っている術だったがこれが存外に難しい。舌を喉奥で縮こまらせるのはもちろん、息が掛かるのを嫌がる主の為に呼吸すら抑えている。力んでいると叱咤されるが、脱力すれば唾液が垂れ落ちる。
やわやわと包むように弄んでいた唇に油断していると、尖った歯が襲ってきた。痛みと異物感に、鳥肌が立つ。
遠慮なく突き立てられる歯列に、食いちぎられるのではないかという本能的な恐怖がまた体を退かせようとする。それに抗したのは、主への信頼というよりは、食いちぎられてもいいという諦念だった。
全てを捧げると決めた相手になら、唇くらい喜んで差し出せる。
だが、本当はとっくに解っていた ―― こんな事は無意味だと。
眠れない子供がぐずって毛布に噛み付くようなもので、普段から銀髪の部下をサンドバックにするのと殆ど同じようなものだ。
主が心の中で求めているのは、自分なんかの唇でなくもっと別のものだということ。自分が本当に恐怖しているのは、それを分かった上で何も出来ないこと。ひどく冷たく突き放した分析が頭の片隅にあるが知らない振りをした。そんな事実に何の価値もない。
言うべき言葉が見つからないから、黙って口を開けて立っている。
目前にある瞳に浮かぶ苦しげな色を癒せないから、視線を落として気付かない振りをする。
主の身を焦がす憤怒の捌け口に、自分がなることで彼が少しでも安らかに眠れるのならばと、出口の見えない思考を止めて受け入れる。
しばらくすればいつものように飽きるだろうと、心の中で嘆息し、暇つぶしに羊を数えることにした。
脳裏に描いた広い野原と白い獣。
滲み出た血を舐め取られる感触に肌を粟立てながら思い浮かべる、草を食みながら穏やかに鳴き交わす羊の群れは、微かな眠気を誘い、仮初めの慰めを齎した。
そしてそれは、自分が今されている行為にとてもよく似ていた。
たぶんストレス性の異食症。
土やらガラスやら変なものを食べたくなるのです。
鉄分を摂取すると治るよ!
元街園様の「モウソウニューロン」4周年祝い